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ご立腹と自由意志

私、自分を取り巻く個人的なちょっとした状況にはしょちゅうイラっとしたり、
せかせかしたり、するんだけど、誰かに対して個人的に腹が立つとかは、
あんまりありません。ここ2、3年はあんまり思い出せないかも。
言動に対して「えーっ、どうゆうことかしら」て、首をかしげる
ことはまれにありますけどね。
私も、他人に首をかしげられていることが多々あるかと思います(笑)。

でも、12月初旬にセドナにいるときに2名の方に腹が立つことがありまして、人に腹が立つのはめずらしいなぁ、と思っていたのだけど、セドナツアーがはじまって、忙しかったから、ほっぽっていました。

日本に帰国して、落着いたら、びっくり仰天。
まだ腹がたっているではありませんか。
めずらしいことなので、ある意味かなり興味深かったです。

そのターゲットの2名の方たちに関連はないのですが、
その方たちの行動+その後のメールに対して私は腹を立てておりました。
で、どうしようか考えて、2つの選択肢が思いつきました。

その1) メールで一言、指摘してやる!
その2) 自分で思いつく限りの最高の愛ある対応する。
えーと、この時点での私としての最高の愛ある対応は、
相手も悪気ではなくて、
その行動と言動がその人の精一杯だったのだろうと解釈して、
【黙っとく】です。

1)はですね、自分の個としての尊厳が無視されたと、私は解釈していたわけです。
だから、そうゆうことをしていただくのは困ります、ということを伝えようと思ったわけですね。で、文章を考えると、何回書いても、嫌味な文面になります。
当然です。
『自分を尊厳を守る』という一見それらしい理由づけのウラには、
私が正しくて、あんたが間違っている!とか、
私がした嫌な思いを、返してやるみたいな気持ちがどこかにありますからねぇ。

2)はですね。泣き寝入りとか、自分を感情を抑えているのでは?とか、人に対して妥協しすぎと思われそうですが、『最高の愛ある対応』といっても、
相手に対してというよりも自分自身に対して『最高に愛ある対応』をするのは、どんなことか考えたわけです。
今回の腹立ちは、それぞれの個人的な感情に絡んだことだったので、私が何か反応することで、また、それに対して反応が返ってきて、その反応で自分の感情がまた乱れる可能性が大(太字・下線・イタリック・囲みをイメージしてください。)だったわけです。

んじゃ、ヒーラーなら当然2)を選ぶはずでしょう!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは幻想です(笑)。(笑っているけど、本当だよ。)

一般的なスピリチャルなお話に照らし合わせてみると、1を選ぶと波動が下がりそうで、2)を選ぶと波動があがりそうでいいですねぇ。

でも、最近の私には、それもあまり意味をなさない感覚なんです。

たとえ、1)のように一般に波動が下がるということでさえ、
それをどうしてもやってしまうなら、それもまあ、いたしかたないと思うんです。
1)をやることで私たちの本質の部分(スピリット)は学び・味わっているわけで、
当然、まいた種を刈り取るわけですから、その後、私自身はそれなりの苦い経験や思いを体験するでしょうし、まわりに方にも嫌な思いをさせるでしょう。
でも、そのときに、それをやってみなければ、学べないことがあったのです。
だから必要だったとえばいいのかしら。
それは、自分のパターンであって、何回も繰り返してきたことでさえ、
もう一回やらないと学びきれなかったということなんだと思います。
だから、スピリットとしては、やっぱり痛かったけど、学べてよかった!やったね!って味わっているのかもしれません。

で、2)の波動が上がりそうなものを選ぶとしても、それが、波動があがりそうだってどこかで読んだ(聞いた)からということで、?を選ぶとしたら、そこには私のハートの思いはあんまりありません。
空っぽな自分が、外のものが提示してくれた選択肢を、
本当は結果なんてものはわからないものなのに、「波動があがるという結果」を
求めて選んだような感覚になってしまいそうです。

だから、私は、本当にどっちでもいいって思ったんです。
感じ悪いメールを出して波動を下げるもよし、愛ある対応をしてみるのもよし、
どっちを選んでも100%問題はなくて、それによって、次の学びの扉が開くだけ。
1)だって、悪いように見えるけど、案外スカッとするかもしれないし(笑)。

本当に本当に、「どっちを選んでも、絶対大丈夫、OK」だって心から思えたとき、
私は2)を選ぶことにしました。

なぜなら、私には2)のほうが新鮮で、チャレンジングだったから、興味が引かれたのです。

どっちを選んでも大丈夫で、問題ないのだったら、どっちを選んでみたいか、本当に自由な意思で、選択をすることができた感覚がありました。

それで、あー、これが自由意志なんだ、ってはじめて、自由意志というものを実感できました。

それで、こんなこと思ったんだよね。
『人は自由意志を持った存在です』って、スピリチャルな世界でよく聞くフレーズですね。
私もそうだと思いますj。
でも、自由意志は持ってはいるけれど、みんながみんないつも使っているわけではないんでしょうね。

「自分で決めた」と思っていることの中の多くには、ひょっとして潜在意識の中にある自分のパターンが、オートマティックにそう決めさせている内容かもしれません。

潜在意識の中にある思考パターンだって、自分のもんじゃないか!って思うかもしれませんが、それはパターンだから、自由な意思とはちょっと違うような気がするの。

あと、「xxxがイヤだから、怖いから、こっちを選ぶ」というのも、自由意志というよりも、恐れに基づいた、制限的な思考パターンからの選択な感じがします。

そう、だから、いかに自分自身が、これまで、自由意志を意識的に使えていなかったかを、すごく実感しました。

でも、自由意志のコンセプトってちょっと難しいと感じたことことありませんか?

私にはそうでした。
言葉はわかるけど、実感が伴わないというか、なんか、漠然とした感覚というか...

で、一回、自由意志を使うということを意識的に体験してみると、ああ、こうゆうことかというのが徐々に腑に落ちていうような気がします。

ネガティブに見えるもの、ポジティブに見えるもの、本当にどっちを選んでも究極の意味では大丈夫なんだって思えたときに、はじめて自由意志を実感できました。

なんか、そのことがあまりにも嬉しくて、腹立ちが減ったかも。

そして、一度これを体験すると、別のことにも、自由意志を使っていくことがどんどん上手になっていくような気がします。

あ、あと、一度決めたからって、腹立ちがすっきり収まるわけではなくて、また、]
やっぱり一言言ってやろう」
とか思うわけですよ。人間ですし、記憶喪失になっているわけじゃないから。
でも、そのときに、また自由意志で新たに選択できるわけです。

というわけで、愛ある選択をしていたら、およそ一ヶ月。
メビウス工作が、なぜかうまくできなくて、2時間ぐらいもくもくと工作しているときに、私の腹立ちの内容のほとんどが誤解であったことが突然わかってきて、それに関連して、いろいろとひらめいたのです。

なんか、わからないことが自分の中からわかってくる体験って、面白いなぁ。

ただ、これって、「じゃあ否定的でも肯定的でも100OKなら、
岡田さんは、人を殺すのも、助けるのも100%OKで、
自由意志で選択して、まったく問題がなくて、まったくOKだって、胸を張っていえますか?」と聞かれたら、難しいなぁ。

どれだけ宇宙の完璧性を実感しているか、
どれだけ意識の成長のありかたを理解してきたか、
どれだけ自己の本質に安心していられるか、
そうしたことがもうちょっと深まってからでないと、
ズバッて答えるのは、難しいなぁ。
そもそも、その問いに答えることが意味のないことかもしれなかったりするし....

また、メビウス工作とかしていたら、ひらめくかもしれませんね。

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2011年01月12日 16:55に投稿されたエントリーのページです。

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