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真逆の法則

ふと、思うことがあって、リコネクション・ルームのいろいろなプログラム参加してくださる方や、
長く想念観察クラブに来てくださっている方に、
「リコネクション・ルームに何を期待してるんですか?」って聞いてみたくなったのね。

こんな風に書くと、なんか恐いな(笑)。恐く聞いたわけじゃなくて、
自分がどんな役に立ってるんだろうというのを、最近フォーカスしてなかったなと思って、
知ってみたくなったのです。

私が自分に役立つこと興味あることや視野を狭めに(笑)はまっていることをお伝えすることで、
来てくださる人がご自身の本質を思い出すのに役立てば、いいなと思ってるだけど、
これまで、相当自分の興味のほうにウェートをかけて仕事をしてきたような気がして、
ちょっと聞いてみたのです。

まず、多かった反応は、?マークの顔。
「おまえ、いまさら、何を聞いてるんだ?」という顔なのでしょうか。すみませんm(_ _)m(笑)。

何でも話せる場所がある、とか、自分をそのままでいられる場所だとか、
ジャッジのエネルギーを感じないとか、
そんな風なコメントをいくつかいただきました。

へー、そうなのか。。。。
そんな風に感じてもらえるの嬉しいな!

でも、そういえば、前にも数名の方にジャッジのエネルギーを感じないのがいいと嬉しい言葉を
言っていただいたことがあったのだけど、どうも、自分にしっくり来なかったの。

ヒーラーとして断言するのもどうかと思うけど(笑)、あたし自身は、とっても批判的なんです。
数字のエネルギーをみても、最高に批判的と思える波動を”がっつり”もってます。
もうそれを言ったら立ち直れないことを言えるような数字。
数字的に解釈すると正確な直観と分析に論理に基づいた批判なので、
ほら、本当のことを言われると、痛いじゃない。
そうゆうやつね。で数字は、何かは内緒(笑)。
と、とりあえず、数字のせいに責任転嫁しておきます(笑)。

批判的なところには、20代のグループセラピー修行時代から気がついていて、
結構、嫌だったのよね。なんでも分析して批判していくから、疲れるし、自分が嫌なやつだって感じられてました。

人のことを見て、分析して、批判できるんだったら、同じ能力を使っていいところを見つけられるだろうっ
思って、なるべく、セラピーの場ではいいところを見るように努力してたのを思い出します。

でも、波動のこととか、宇宙の法則のこととか、知るにつれ、
批判もいいところを見るもの同じ能力って、間違いじゃなかったかもって思うのよね。

宇宙の原理の中に『反対の原理』と『両極性の原理』ってあるんだよね。

すべてのものがあるカテゴリーに含まれ、
そのカテゴリーに内で正反対のものが存在するっていう原理。
原理っていうと大げさなんだけど、当たり前のこと。っていうか、宇宙の原理はみんな当たり前なんだけど(笑)
たとえば、冷たいがあったら絶対に熱いが存在します。
それは、熱というカテゴリーが存在するということで、そのどっちの極にあるかってことだから。
冷たいだけしか、存在しないということはありません。
痛いがあったら気持ちいいが存在します。
それは、たとえば、感覚というカテゴリーが存在するってことだし、
「むかつく」があったら、たとえば「愛してる」がそこには絶対にあります。
人によって何が対応するのかは違うとは思うけど、
大雑ざっぱにいって、たぶん愛の表現とか愛にまつわる感覚といったようなカテゴリーが存在するといこと。

自分のここが嫌いとか、ここがダメとか、ここがよくないとかって、
強く思っている自分のクォリティ-があったらね、
ただ単にそれが属するカテゴリーのエネルギーが大量にあるっていうことって風にも
みれますよね。

だから、もしかして、まったく真逆のクォリティーを発揮できる可能性があるのかもしれません。

全部が全部そうかどうかはわからないけれど、その可能性は大なんじゃないかしら?


そうそう、先日のセレモニー瞑想会でも、
とても緊張していらっしゃった参加者さんがいらっしゃたのだけど、
セレモニー後、瞑想に入ると、たゆたゆとして大きな川の流れのビジョンをみていらっしゃいました。
自分のゆったり度カテゴリーの「緊張してみを縮めてしまうような部分」と正反対のどっしりとした部分を
感じていただけたのかなと感じました。
実際、シェアしてくださっているときも、ゆったりと落ち着いた波動が伝わってきましたよ。

自分の中の好きじゃないクォリティーがあって、自分を嫌ったり、
それをなんとかして無くそうとやっきになり”すぎる”のは、
最終的には本来持っている自分の完全性を否定する方向性にもなっちゃうもんね。

他人の中に嫌な部分を見ちゃうときには、その部分って結局は自分の内側にあるものを
他者に投影して見ているだけです。だから、他者にみちゃう嫌なものって、
「あー、それは、私でした」って自分のものとして自分に取り戻す必要があるけれど、
これは、それとは話がぜんぜん違うのです。

それにさー、もしかして、嫌なところって、すっごい目に付くじゃない。気にしてるから。
気にしていると、小さいものも大きく感じちゃったりね。

そんなことを、久しぶりに強く実感したのでした。