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Gパン・ヒーラーのママ

うちの母にちょっとおもしろいことが起こっています。

母は北海道に住んでいるので、
6月の北海道出張のついでに帰省したときに、
久々に母にリコネクティブ・ヒーリングをしてみました。
出張の前日と前々日の合計 2 回。
安上がりな親公行です。

でですね、ホテルでの 2 泊 3 日の出張が終わり、
母とホテルで待ち合わせランチを食べているときに、
母が動揺した様子でこんなことを...

2 日前のことだけど、眠りについて 1 時間ほどしたら、
色とりどりの無数の光線が暗闇の中に走っているいのが見えた。
自分のほうに、びゅんびゅん飛んできた。
ものすごく怖くて、死ぬかと思った。
本当は、ものすごくきれいな光のはずなんだけど、
そんなもの生まれて63年間みたことないし、
もう、終わりなんだと思ったさー(北海道弁)。
でも、こんな風に死にたくないと思って、
必死で目をあけて起きたんだけど、
口はからからだし、怖くて怖くて、目をつぶれなくって、
結局一晩中起きていた。

普通、みんな、ヒーリングの体験としてそうゆうのを見たがるんだけど、
なぜか、母にとっては死ぬほど怖いものだったらしい。

私は、母に、それはたぶんリコネクティブ・ヒーリングの影響だと思う。
実際、そうゆう体験をする人もいるしね
今度、そうゆうのを見たら、「私は光を受け入れます」と言ってみたら、
と言っておきました。

そして、今度は大阪セッションのときでした。
たまたま母の誕生日だったので、おめでとう電話をかけると、
また、あの光の夢を見たというのです。
ちょうど、出張の初日の晩に見たそうです。

母は、光を見たら、やっぱり怖くて、
私に "何かを言え" といわれたことは思い出したものの、
何を言えばいいかはどうしても思い出せなくて、
またもや命からがら目を覚ましたそうです。
そして、また、徹夜。
もともと、不眠症なのに気の毒だなぁ。

「私は光を受け入れます。」だよ?。

今月も、19日と20日に出張があったので、
出張が終わってから母に電話してみました。
母は、私が出張だということは知りません。
「もしかして、最近、また、光の夢みなかった?」
「うん。昨日の夜みたよ。でも、今度は、銀色の光線だったけど。
とうとう、今度は、あんたに言われた言葉を思い出して言ってみた。
やっぱり目は覚めたけど。その後はすぐに寝られたよ。
怖くなかったわ。」

だからさー、普通、みんなそうゆうのを見たがるんだってば (笑)!!!


というわけで、私が出張に行くたびに、
その初日の晩に光線の映像を見るらしいのです。
不思議です。

親子ともども、出張とリコネクティブ・ヒーリングに関連があるという以外はさっぱり理由も意味もわかりません。

でも、母も私もわからなくっても、まあ、いいやと思っています。
不思議で面白いしね。


一年半前にリコネクティブ・ヒーリング/リコネクションを始めたときに、
私が一番大変だなと感じたことは、何かを聞かれても「わかりません」と答えることが多いことでした。
実際にわからないので、そう答えるわけですが、
私のような凡人は、普通、
「何かを提供するのだったら、それについて知り尽くしておくことが必要だ」とか、
「わかっていることが良いことだ」とか、
「理由や原因を知ることが大切だ」とか、
「知識があるほうが偉い/賢い/素敵だ」なんて風に条件付けられているものだから、
「わからない」と答えることにかなり抵抗がありました。

でも、エリックの本を読んだ方ならご存知のように、わからないことは、
「わからない」のです。リコネクティブ・ヒーリングのセミナーに出ても、
「『わからない』と答えることになれるようにと言われました。

でも、本当に抵抗がありましたよー。

私自身、最初に、リコネクティブ・ヒーリングが何かもしらずに、
個人セッションを受けたときには、プラクティショナーの方に
「私はどうだった?」って聞いたもの。
そしたら、当然「I don't know」(ニュージーランドの方なので...) って言われました。

私にも、プラクテクショナーならセッションしたお客さんの状態がわかってしかるべきという
先入観があったので、ちょっと面食らいましたよ。

でも、自分もプラクティショナーになり、セッションを重ねていくうちに、
「わかりません」というのがだんだん慣れてきました。

そうだよね。わかることがいいことだと思ってたけど、
そうじゃないのかもしれない。
そもそも、なんでもわかったら、人間になんか生まれてこなかったかも。
神様じゃないんだから、なんでもわかるなんておこがましい。
何かをわかったと思っても、「わかりました。」で終わりにしてしまったら、
可能性を閉ざすことになるんじゃないかしら?
自分の思考では認識できないことが、経験されていたり、ハートにすっと入ってきているのかもしれない。
それを、「何々がわかりました。」と決めてしまうことで、
本当に受け取っているものを目減りさせているかもしれない。
そんな風に思うようになりました。

もちろん、何かを理解したり、わかったりすることは素晴らしいことだとおもいます。
それが悪いというのではなくて、わかっても、わからなくてもいいんじゃないかなと思うようになってきました。
苦しい思いや、つらい体験をしている方が、その理由を知りたいと思われるのは当然だと思います。

でも、わかっても、わからなくても何の問題もないと思えたら、
少なくとも、困難にかかわることじゃないのなら、
「わからない」ということに安心していられたら、
新しい可能性がひろがっていくのかも、そして、
安心感 + わくわくが増えるなぁと思いました。

というわけで、
今度の出張のときも、母に抜き打ちテストしてみます。

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2006年07月21日 22:12に投稿されたエントリーのページです。

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